森進一さんへご連絡気仙沼の歌碑が放置されていますご存知ですか?不安の方森進一さんへ連絡ください
森進一さんの大ヒット曲港町ブルースの歌碑が気仙沼にあります。それは誰よりも森進一さんがご存知だと思います。大震災でみじめな姿に変わりは田琴葉美存知でしょうか。9月に気仙沼へ行きましたら震災当時とまったく同じで荒れ果てていました。これでいいのですか。
以下は2011年7月23日に私のブログに書いたものです。
今日森進一さんのHPを拝見していましたら、冒頭にこんなご挨拶の文が掲載されていました。
絆・・・・森進一
日ごろ大きなご支援・ご声援をいただき、ありがとうございます。
このたびの東日本巨大地震の被災地の皆さまには、
心よりお見舞いを申し上げます。
余震や原発事故等への対応も含め、東京周辺でも不安な日々が続いておりますが、
被災地ではさらに大変な状況とお察しいたします。
復興に向けてどうか頑張っていただきたいと、心から願っているところです。
まだまだ寒さも残り、天候も不順の折、
被災地の皆さま、そして全国の皆さま、どうぞお元気でお過ごしくださいますよう。
森 進一
私が気づくのに一寸遅すぎたかんがあります。このお言葉に感謝申し上げます。そして、港町ブルースは森進一さんがとても大切にしておられる曲だともいつも聞いていました。私は鹿児島大学水産学部を卒業して、北海道大学大学院へと進みましたが、丁度昭和39年に鹿児島で生活を始めることになりました。そのとき「女のためいき」でデビューされてからファンというよりも応援したい歌手の一人でした。私が水産系の大学を進みましたのでこれから森進一さんの港をテーマにした歌に影響を受けました。今は港神戸近くにいます。これも海と港町が大好きだからです。そして、仕事も全国の港町に行くことができ沢山の漁師さん、加工会社の社長さんとめぐり合いました。めぐり合えた人たちは私の大切な財産です。3月11日は気仙沼にいました。これも運命なのかもしれません。でも気仙沼の人たちに助けてもらいました。
風光明媚なこの町が無残な瓦礫の中にあります。こんな中だれが綺麗にしているのでしょう。森進一さんのモニュメントが綺麗に清掃されていました。この気仙沼の人たちは森さんが大好き、森さんの歌が大好きなのです。でもその大切なモニュメントが悲惨な姿になっていて悲しい限りです。
森さんがもし、少しでも時間を作っていただけるなら、気仙沼へ行ってほしいと思います。このモニュメントを見て欲しいのです。こんな悲惨な中でも、気仙沼の人は全力で誠意を持って大切にされている様子が伺えます。私はこの壊れたモニュメントを見て涙が込み上げてきて止まりませんでした。
モニュメントから又あの素敵な森進一さんの声が流れる日を気仙沼の人はきっと信じているではないでしょうか。私はもう壊れているのにと思ったのですが、そこはさすがに心優しい気仙沼の皆様です。涙の訳はこのことなのです。気仙沼でも最も港町らしい桟橋にありました。私はここからの景色が最も好きです。
「港町ブルース」には函館、宮古、釜石、気仙沼とつづき・・・三崎、焼津、・・・八幡浜・・・燃えてみをやく桜島、旅路の果て、枕崎と・・・・港町が繰り出されていきます。すべての町でいろんな楽しい思い出があります。気仙沼もきっと立ち上がって・・・数年立った時に・・・あの時は大変だった、でも皆で良く頑張ったよね。きっとそんな日が来ると信じています。
私は神戸淡路大震災も16年前に遭遇し、家をなくしました。全壊でした。でもその時に前川清さんの「そして神戸」を良く歌っていたことをいつも思い出しています。だから何処に行ってもカラオケのチャンスがあれば「そして神戸」と「港町ブルース」は絶対に歌わせてもらいます。あの頃を思い出しながら歌っています。時に涙することがあり、どうされましたと聞かれることがあります。とても私の人生の中で忘れてはいけないのがこの二曲です。素敵なうたです。ありがとうございます。
今はこんな残酷な中に気仙沼はあります。
頑張って復興しましょう。
港と桟橋近くは気仙沼で最も昔の風情をのこした気仙沼市民の自慢の町並みがあったのです。これが大震災の前です。桟橋の奥に三角のライトが綺麗に輝いていますがこれが森進一さんの「港町ブルース」のモニュメントです。いつも気仙沼の人たちは大切にしていましたよ。綺麗な町でしょう。絶対に復興できます。復興にこの歌を大切にしていきましょう。早くこの歌が聴けるといいですね。
この素敵な写真は気仙沼プラザホテルから撮りました。勿論大震災前の写真です。私の大切な写真でもあります。