気仙沼、南三陸町、三陸の復旧、そして復興に向けて・・・・(86)
気仙沼、南三陸町の方に会いました。そして、私の16年前の阪神淡路大震災での経験を話すことが出来ました。その内容の詳細は後日お話します。私の印象は震災当日よりもその震災の影響は大きくなっていると感じられました。この瓦礫を撤去して復旧、そして復興に向かうには大きな市民、町民の皆様がどのようにして立ち上がっていくかの道筋がとにかく必要だと言うことです。国にたよるのは良策ではないとはっきりいえます。どんな町にするかは自分達で決めないといけないと思います。国に頼っていたのでは自分達の意思と違った方向に進み、しかも財政は厳しくのしかかってくると思います。更に復興が遅れてしまいます。現状でも遅れていると思います。阪神淡路大震災よりも酷い・・・だから・・・と遅くなっている理由を並べないことです。それは国に頼っているからです。復興計画書が絶対に必要だということは更に印象づけられました。この復興計画書がしっかりしていれば財源はついてこれるということです。国がダメなら、民間があります。日本がダメなら世界があります。そんな位置に気仙沼も南三陸もあるということです。自信を持ってください。
気仙沼に再度帰り被災地をもう一度見てみることにしました。被災地を見つめること、私は復興はここにあると思います。気仙沼が泣いています。気仙沼が素晴らしい笑顔に帰るにはどうするべきか、必死に考え抜きます。
市場近くの鮪船近くに足が向いてしまいました。あの大震災の日私の目の前で炎上していた鮪船にあうために・・・。
丘の中腹にある教会は気仙沼のシンボルでもあります。しかし、その海岸近くはこれも気仙沼の古きよき時代の街並みを残したとても雰囲気の良い町並みがありました。この町並みも全壊しました。ではこの町並みをどうするのかは考えなければなりません。古いものはなくなってしまいましたが、古いものを生かした、新しい町並みを考えてはどうでしょか。このことは気仙沼全体に、・・・そして、三陸全体について考えることも出来ます。鉄道はその一つのだとも思います。壊滅した鉄道を私なら大切にします。その考え方の延長からも復興の道筋が見えてきます。これは国には出来ないと思います。
五十鈴神社も大切にしたいものです。南三陸町への途中でも沢山の神社がありました。この中には七福神のお話がありました。とても素晴らしい話でした。私の孫にも近所の子供達にも聞かせたいと思ったくらいです。これも財産です。神社に残されたお話をつないでいく、ご先祖様のありがたい知恵がそこにはありました。いずれも素晴らしい風格のある神社でした。なぜかこれらの神社は被害が少ないように私には見えましたが。
陸に上がってしまった鮪船、こんな格好は可愛そうです。あの雄姿はやはり海にあってのものです。一日も早く海に浮かべてやることだと思います。この船も生き物です。漁師さんと一緒で家族の一員だと思います。悲しい姿ではあまりにも可愛そうです。でも、そう思っておられるのは私よりも船主さん、乗組員の皆さんだと思います。
市場も酷く被災を受けていました。岸壁は大惨事当日よりも破損、亀裂が酷くなっていました。
岸壁に震災を受け炎上した鮪船の痛々しい姿がありました。とても可愛そうでした。もう復元は無理なのでしょうか。いつもは青い海に真っ白の船体で走り、その雄姿はとても素晴らしく、素敵でした。
県合同庁舎がこの位置から遠くに見えました。私の命を救ってくれた避難場所でした。150名近い人と一緒に避難が出来ました。良くぞたっていてくれたと感謝で一杯です。
瓦礫の撤去は道路は何とか確保されていますが、ほとんど進んでいません。これから始まるということでした。水道は回復していますが、電気もまだ完全ではないようです。ガスはプロパンのみでの対応が出来ているということでした。まだ、日々の生活でも不自由な状態が続いています。
教会と気仙沼の文化遺産がここに私はあると思っていました。なんとか新しい気仙沼を作り上げて欲しいと思います。壊された建物の一部をうまく使い新しい気仙沼を作れると思います。五十鈴神社と教会、気仙沼の町、この港町の写真何枚も撮っています。大好きな情緒ある風景でした。